オリジナル短編小説「すみれ」

 わたしの祖父には秘密があった。わたしが子どものころの話だ。
 天使の薄い衣がきらきらと舞うような淡い陽光が世界を照らす午后、幼いわたしはよく、母や叔母たちの目を盗んでは、屋敷の北西の端にある祖父の書斎に忍び込んだ。
 重たいマホガニーのドアのきしむのを抑えながら、空いた片手でそっとそれを開く。そこには魔法の呪文で満ちたミステリアスな洞窟が広がっていた──向かいの壁には細長い窓がふたっつ。大抵半分以上は分厚いカーテンでさえぎられており、そこからわずかに差し込む昼中の日差しに室内のほこりが、季節外れの雪か氷の粒のようにきらめくのがひどくうつくしかったのを、いまでも鮮明におもいだせる。四方の壁のほとんどには大きな本棚が差し込まれていて、そこには上から下までびっしりと重厚な革張りの、それは古い書物が詰まっていた。それらの縁は欠けて、いまにもバラバラになってしまいそうだった。時おりそのひとつを祖父は大事そうに手に取り、深い皺の刻まれた手でやさしく表紙を撫ぜるので、その手のひらの湿り気が十分に革に染み込んでうつくしい艶と味わいを浮き立たせていることを、わたしは十分に知っていた。
 北側の棚の前には、濃厚なココア色の大きなデスクと、緑のベルベッドが張られたチェア。その手前には応接用のバラ柄のちいさなソファと猫足のテーブルも申し訳程度に置かれていたけれど、それらはすでに褪色し、白く塗られた装飾の細部はペンキが剥がれたり茶色くくすんで、あまり客を歓迎する風ではなかった。部屋の一番暗い角から、決まって祖父はわたしを出迎えた。高いところの本を出し入れするのに使う、足の長いこじんまりとした台のうえに、しずかに腰をかけている。影が重なって、ほとんどその顔は見えないのだけど、わたしは祖父が絶えずいぶし銀のような深い微笑を浮かべていることを知っていた。祖父を怖いとおもったことは、一度もない。祖母や実の娘である母からは、祖父は厳格で頑なな昔かたぎの男であると映っていたようだ。それがわたしにはふしぎだった。祖父の低い声はたっぷりの蜜に浸したパンケーキのようだったし、その眸は澄んだ水をたくさんたたえた泉のように潤んでいた。そこにはいつもするどい光が宿っていて、けれどそれはけっして冷たくはない。暗い森の中でひとつの道標にもなりうる、そんな薄淡い明かりだった。
 祖父がことばを発するより先に、わたしは部屋のなかへと入り、後ろ手でドアをそっと閉める。右手で抱えていた大きな本を、両手で持ち直す。足音を立てないようにしながら、彼のいるほうへ近づき、数メートル手前で止まる。祖父の両腕のなかに、いつもの先客がいるのを見て取り、わたしは毎回おもわず小さな息を吐いた。数日ぶりの再会のよろこび、それとスパイスほどの嫉妬がない混ざった、じぶんでも奇妙なため息だった。
「また来たの?」
 とニヤリ笑う先客のその仕草は、いやにニヒルで、ちくりと胸に刺さる残酷さがあった。彼の名前はベリルと言ったが、その名に似合わず、菫色の眸をしているので、子どもながらにちょっとおかしかった。透き通ったガラス玉を嵌め込んだそれをふちどるまぶたには、高名な彫刻家が鋭利な刃物で刻みこんだらしい均等な深い線が入っていて、ふさふさと長いまつ毛と相まって、菫の印象をより一層際立たせ、そこには左右対称にふたっつうつくしい野花が咲き誇るみたいだった。癖のある頭髪は光の具合で、虹のように七色に変わった。暗い影のなかでは緑がかった鴉羽色で、どんよりとした鈍いきらめきを秘めている。色がない薄いくちびる。対照的に、それをぺろりと舐めた舌の赤さが、やたら目に刺さって残る。くちびるが湿ってつやを持つと、彼の持つ引力が極端に強まるのをかんじた。
 百合の強烈な匂いに当てられたように、くらくらとめまいを覚えつつ、わたしは彼から目をそらし──おのずと彼を無視するかたちになった──、彼をひざに抱える祖父の顔を見た。すべてがなだらかに重力に従って落ちてできた皺は、いつかバカンスで行った北の海のさざなみを彷彿とさせた。たるんだまぶたの中に、深淵のようにひそむ黒い眸。そこにどこまでも果てしない慈愛を読み取って、それがいったいだれに──なにに対して抱かれたものなのか、わたしは混乱する。その目はわたしのほうをしっかりと向いていて、それなのに祖父が見ているのはちっぽけなわたしなんかではなく、わたしのあたまを通り抜けて、この屋敷の屋根も空も通り抜けたずっとずっと先を見つめているようにもおもえる。それはべつに珍しいことではなかった。南のダイニングルームで、家族全員で食事を取るときは、祖父はぜったいにこんな目はしない。いつもうつむいて、朝から晩までおしゃべりの止まらないにぎやかな女たちの会話を聞いているのかいないのか、どこか乾いたくもりガラスのような眸を虚空にさまよわせながら、しずかにフォークをくちに運ぶ。この書斎で会うときは、ちがう。より力強く雄弁な静寂をたたえて、わたしの訪問を待っている。そしてわたしにかならず開口一番、こう言うのだ。
「ありがとう、と言わなければならないね」
 かすかに見える微笑とともに、絹糸をつむぐように発せられるそれを、素直な礼と受け取っていいのか、わたしには分からない。だから、「どういたしまして」と返すことはない。
「また来たわ」
 さっきのベリルのことばを受け取るかたちで、わたしはそれだけ、小さく答える。祖父が片方立てた腿のうえで、ベリルは「ふん」と鼻を鳴らした。とがった顎が、いかにも皮肉屋らしい佇まいを宿している。すっと伸びる首筋から下は、紺色の筋が入ったセーラーカラーの白いシャツ。汚れひとつない真っ白なシャツ。それに合わせる紺色のショートパンツは、いっそ青白いほどの陶器の肌と、強烈なコントラストを作っていた。細く骨ばった長い足は、ひざだけがピンクに染まり、熟れた桃みたいだった。
 わたしはそれから視線を剥がし、応接用のソファにすとんと腰をかける。バラの散るピンクのファブリックは、色の褪せているわりには清潔で、ほこりひとつ立てない。古ぼけているからといって放置されているわけではなくって、わたしたちが最低でも週にいくどかは、こうして使用しているからだ。
 揃えた両ひざのうえに、持参した本をのせる。これも分厚い革張りの本だ。茶色の表紙に金色で刷られたタイトルは、もうすっかりかすれている。
 ベリルが祖父のひざから飛び降りるのが見えた。かかとのあるエナメルのメリージェーンで、足音を立てずに着地し、わたしの前までやってくる。カーテンの隙間から差し込むわずかな光を受けたその姿は、光で縁取られた御使いのようにも見える──わたしはおもわず、かつてどこかで見たミレイの絵画をおもいだした。
「きょうは、何?」そう尋ねる少年のアルトは、木管楽器の甘やかな音色に似ている。
「なんだとおもう?」
 両の手で本の表紙を隠して、わたしはおもわせぶりに訊き返す。
「焦らすなよ」
 ベリルは白樺の小枝のような腕を伸ばし、わたしから本を奪おうとする。わたしが持ってきたこの本を、彼がこころから楽しみにしていることを、わたしはよく知っていて、それでちょっとした意地悪ごころで、くすくす笑ってその手を払いのける。見上げると、つややかな白磁の顔貌の中心に、きゅっと細かい皺が寄っていた。あいかわらず不機嫌がすぐ表に出てしまうようだった。
「いいじゃない。ちょっとした、お遊戯(ゲーム)よ」
「占星術だ」
「ちがうわ」
 部屋の角から祖父が立って、こちらに近づいてくるのが見えた。一歩踏みしめるたび、フィッシュボーンの古い床がギッと鳴る。怒られるとはおもわなかったけれど、わたしは祖父と目を合うと、すこしだけ居心地悪くまばたきをして、それから素直に本をそちらに向けて、差し出した。
「怪談?」
 受け取ったベリルは中扉を開いて、怪訝な表情をする。
「そうよ」
 わたしは一寸誇らしい気もちで、座ったまま胸を張った。
「怪談、と言ってもね。あたらしく作られた、偽物のうそっぱちなんかじゃないのよ。古くからある伝説を、17世紀の吟遊詩人が各地をめぐって、収集して編纂したものなんですって。野蛮な異教の風習なんかも、載っているんだって。おぞましい挿し絵も、入っているわ」
 わたしがそう説明してやるのをよそに、ベリルはしずしずとなかを流し見る。しばらくじっと黙ったのち、
「へえ。おもしろいじゃないか」
 白いくちびるが、そうちいさなつぶやきをつむいだ。わたしはひそかに胸を撫で下ろす。「あんたなら、そう言うとおもった」
 ベリルもソファによじのぼると、わたしのとなりに腰をかけた。彼の体に比して大きすぎる本を、両膝のうえでどうにか、開く。わたしも身を乗り出して、のぞきこんだ。
 台から降りた祖父も、わたしたちの斜向かいに置かれたひとりがけのソファに座りなおす。わたしたちのほうへ、ちょっと体を向けた。
 軽く咳払いをしてベリルは、朗々と音読をはじめた。
「時は1028年、北方のHという村で起きた話だ。ある雨の夜、ひとりの女が裸足で歩いていた。それを見た村の男が、……」
 この本は、古い外国語で書かれているから、わたしは1音節だって、読めない。でもベリルは、これを易々と訳してしまう。
 迷いのないベリルの爽やかな朗読に、わたしは一心に耳を傾けた。内容はほとんど退屈で、整合性がなく、時代遅れであった。それでいて時におそろしく、わたしはしばしば身を縮めてベリルのシャツの裾をつかんで、震えながら聴いていた。ベリルも読みながら、すこし恐れているようだった。ページをめくる指先が青ざめ、ひじが小刻みに震えるのをかんじとった。
 半分ほど読み終えたころ、ベリルがふとくちをつぐんだ。顔をあげ、「明かりをつけないと」
 気づけばすでに室内はほの暗い灰色の薄闇におおわれていた。わたしは立ち上がって窓辺に行き、カーテンを全開にする。窓向こうの空は青みを残しつつも下方は赤みを帯び、いまにも日が沈みそうだった。
「もう戻らなくちゃ」
 そう言ってわたしが振り向くと、すでにベリルも本を置き、立ち上がってそこにいた。
「そろそろ母さんが、夕ごはんを作り終えてしまうわ」
 何気なくくちにしたわたしのことばに、ベリルの整った顔が、わずかに歪むのを見た。わたしはおもむろに謝りたくなって、けれどそれを言えば、余計にベリルが惨めな立場に置かれてしまうと分かっていたので、謝罪はしなかった。
「つぎは、どんな本がいい」
 わたしの問いかけに、ベリルはわずかに視線をそらして、どこかシニカルに左の口角をあげる。
「なんだって、いい」
 とはいえ、ベリルはもうこの部屋にある古今東西のさまざまな本をすべて読みつくしてしまっている。どんな本なら彼が興味を示すかしら、と、かんがえるのはとてもたのしかった。だけど図書館の膨大な蔵書のなかから探しだすのは、ちょっとした苦労でもあった。
「もしも、の話だけど」
 わたしはことばをえらんで、とつとつと話し出す。「この部屋から出られたら、何をしたい?」
 西日を受けたベリルの顔はまた、悲しげにくしゃりとなった。答えてもらえないかとおもった。でもベリルはかすかに首をかたむけて、しばしかんがえるようにしたのち、「そうだな」古い時計のねじが、かすれた音を立てて回るみたいに、言った。「……ほんものの蝶を、見たい」
「それなら、簡単だわ」
 わたしはすぐに兄の標本(コレクション)をおもいうかべた。しかし、ベリルは首をちいさく振る。
「死体じゃ、だめだ」
「じゃ、わたしが捕まえてきましょうか」
「おまえの指は、湿っているから、羽をつかんだら、やぶいてしまうんじゃないか」
 それはありうるかもしれない。ベリルが肩を落とすのと同時に、わたしも落胆の息を吐く。
「殺してしまうんじゃ、つまらないだろう?」
「それも、そうね」
「ほら、もうお行き」
 窓向こうで、教会が鳴らす時報の鐘が響いてきた。川や森で遊んでいた子どもたちはもう、家に帰って、夕飯の席につく時間だ。
 わたしはうなずく。祖父もゆっくりと立ちあがって、部屋を出るわたしに、持ってきた本を手渡す。ドアのところまで見送ってくれた。
「じゃあ、また」
 振り向くと、閉じかけたドアと祖父のあいだから、ベリルがキザに片手をあげるのを見た。わたしも一寸片手をあげたけど、すぐにぱたりとドアが閉じてしまったから、それが見えたかどうかは、分からない。

 花園はうつくしかった。赤や白や黄のバラが咲き誇ってかぐわしい香りを放ち、どこまでも続くアーチを飾っていた。園にまよいこんだわたしは、ひとりの王女だった。身にまとった純白のドレスを、引きずって歩いた。履いていたガラスの靴のかかとは、いつか折れてしまった。くらりとたじろげば、あたりのバラはするどくわたしに棘を突き立てる。胸元を彩るレースはやぶれ、肌は傷つき、真っ赤な血に染まる。わたしは必死になって、泣きながら出口をさがしまわった。──なにかがわたしを待っている。それから逃れられることはないのだとおもう。おそろしさのあまり、わたしは、汚れた包帯で目隠しをした。耳をふさぎ、ぐっとくちびるを噛み締めた。悲鳴がこぼれそうだったから。

──わたしはいったいいつ、どこで、なにを失ったんだろう。

 マホガニーの扉は、思い出よりもすんなりと開いて、再訪したわたしを気安く出迎えた。古びた香りに手招きされるように、わたしはそっと足を踏み入れる。飴色だったフィッシュボーンの床は日に焼け、あちこち無惨に剥げ落ちてしまっている。分厚いカーテンはあのころのままだったが、コードできちんと束ねられ、ふたつの窓からは目に痛いほどの西日が差し込み、部屋じゅうにあふれていた。
 四方の壁にある作りつけの棚のなかにもう、本は数冊しか残っていない。置き去りにされた物語が、ぱたりと倒れてそこにある。
 小花柄のワンピースのすそをひるがえし、わたしは棚のひとつに近寄った。ハイヒールを履いた足を落とすたび、床がキイキイと悲痛な音を立てる。
「久しぶりね」
 そっとそれを手に取ると、おどろくほど軽くて、わたしは落としてしまわぬよう慌てて両の手で抱き直した。
「長いあいだ、ずっとここにいたのね」
 視線を合わせるようにその顔を覗き込んで、つぶやく。
「ここで何をおもい、何を見ていたのかしら。この部屋にとらわれて──だけどあんたは、不幸せなんかじゃ、なかったよね」
 くすりと笑う。くちびるに引いた紅が歯につくのをかんじる。ほんのりと苦い味がした。
「わたしはこの家を離れてから、たくさんのものに触れたわ。いろいろな感情を、胸に抱いた。恋をしたし、たくさんの別れを経験した。子どもも、産んだわ」
 これまでのさまざまな思い出が、あざやかな若草色の長い帯のようにつむがれ、遠くから次第に消えゆく感覚をおぼえる。そこには、いろんな色の大小の星々がきらめいていたし、対照的にヘドロ色の泥濘にまみれた記憶もあった。そのすべてがわたしを構成する遺伝子や細胞になって、体のあらゆるところに刻まれて、いまここにいるわたしを構築している。それはまるで、宇宙の神秘に匹敵するかのような、壮大かつ歪(いびつ)で奇妙なメロディだ。
 わたしの両手のなかで、白磁の肢体は、だらりとなっている。ちょうど赤ん坊を抱くみたいに、ふしぎな色の頭髪でおおわれたまあるい頭部を、しっかりと二の腕で支え直す。その相貌を、あらためてじっと見つめる。
 ふたっつのガラスの菫のあいだには、大きな亀裂が入ってしまっていた。けれどもそれが持つ複雑な美は、その傷をものともせず──むしろ傷さえももとから兼ね備えたひとつの魅力であるかのようにたたえ、厳然としてそこにある。──記憶していたよりもずうっとちいさな顔に、ちいさな四肢。かたく凍って、もはやぴくりとも、動かない。
「ねえわたしは、あんたを捨てたのかしら? でもあんたは、そうはおもっていないかもしれないわね。わたしは、あんたが好きだったわ。この部屋も……そうね。この部屋が持つ、すべての秘密も」
 いまはもう、なにひとつ残っていないけれど。
 手のなかの少年を、胸にぎゅっとかき抱く。
 わたしは、なにかまちがえたのかしら。それとも、なにもまちがえてなんていないのだろうか。
 菫をふちどる乾いたまつ毛が、風にふるえ、わたしの頬をかさりと撫ぜた。
 遠くでわたしを呼ぶ声がして、おざなりに返事をする。
 やさしい記憶の断片。このぬけがらを、床に投げつけて叩き壊そう。そうおもってここへ来たのに、なぜかふとおもいとどまった。弛緩した体を、棚にもういちど座らせる。色のない薄いくちびるに、親指で触れた。


(完)

... 2026.02.08