「どうして助けてもらえなかったんだろう」という問い2

※じぶんですっきりしたいだけの殴り書きです。文章として整っていませんが、苦しい胸のうちをそのまま書きたいので、あえて整えずに公開しています。トラウマがあるなど精神的に不安定な方は、読むか読まないかは各自ご判断いただき、具合が悪くなったらすぐにページを閉じるなどの対応をお願いします。

小学5~6年生のときが、もしかしたらいちばんつらかったかもしれない。
家は安全ではなく、帰宅時間は毎日憂うつだった。といって、学校でもあまりうまくやれていなかった。簡単にいうと、友だちづくりの段階で、それなりの支障をきたしていた。どこにも居場所がなかった。
ちょうどそのころ、ある誤解から、担任の教師に教室のまえに立たされ、衆人環視のなか、長時間叱責されることもあった。それもあるいはひとつのトリガーになったとおもう。
わたしはそれまで以上にじぶんを責めるようになった。毎晩ふとんのなかで、親にばれぬよう声を殺して泣きながら、じぶん自身を呪った。
わたしは悪い人間だ。だから、こんなにも愛されない。だれからも大切にされない。
じぶんを改めなければ、今後もこうして傷つけられる。傷つきつづけなければならないだろう。
だから、変わらなくてはならない。そういう切迫した必要性に駆られはじめた。
いい子にならなくてはならない。
そうでなければ、生かしてもらえない。生きつづけることができない。
だから、『完ぺきないい子』を目指すことにした。
(おもにおとなから)『愛されるべき、大切にされる優等生』になろう、とおもった。『理想的な子ども』になろう。
そのためには外見から改めなくてはならない。わたしは「太っているし、見た目が悪いから愛されないのかもしれない」という可能性もよくかんがえていた。見た目がかわいければ、愛されるのかもしれない。
12歳。ちょうど初恋らしきものが芽生えた時期でもあって、それも後押ししてわたしはダイエットをすることにした。
小学校の卒業が、いいタイミングになった。
中学から、わたしは『まったくちがうじぶん』になることにした。
中学ではいつもにこにこして過ごした。友だちの顔色をうかがって、空気を読み、ほがらかで元気よくふるまった。クラスでは学級委員に立候補した。運動が苦手なのにバスケ部にも入った。明るいいい子になりたかった。
部活で疲れているのに、毎日こつこつ勉強もした。さいしょの期末テストで、10番くらいに入った。
一気に痩せて、生理も止まった。
でも、だめだった。
なんにも変わらなかった。
そのころ、わたしよりずっと成績が悪い、運動も得意ではないふわふわした同級生の女の子が、「天然だね」と言われてみんなからかわいがられていた。その子は親からも大事にされているようだった。「小雨ちゃんは、頭がいいんだね」「わたし、ばかだから」と言った彼女の微笑は、いっさいの劣等感をかんじさせない、なんの重圧もない、やわらかな綿毛のようなものだった。
いまでもありありとおもいだせる。彼女の顔。あの瞬間に窓から教室に吹き込んだ風の強さ、匂い。
なんてことないそのできごとが、とにかくわたしには衝撃的だった。
あの子は、なんにもできなくっても、愛されるんだ。
母親に「学校に行きたくない」と言ったのは、そのすこしあとのことだったとおもう。
わたしはそのときすでに極限まですり減ってしまっていた。もうなにもわからなかった。これ以上どうしていいかわからなかった。
『登校拒否』という語が広く浸透しだし、問題視されはじめた頃だったと記憶している。
母は強く追求することなく、わたしを休ませてくれた。
でも、あまり心配するふうでもなかったとおもう。
その後休みが長引いても、問題に直接触れようとはしなかった。
一度だけフリースクールの話を持ってきてくれたけど、見学しただけで、わたしはそこへ行かなかった。
母はそれ以上なにも言わなかった。
話を聞こうともしなかった。向き合ってくれることはなかった。わたしから逃げるように、いっそう仕事を忙しくしただけだった。
いっぽうの教師たちは慌てたようすで、学年全員の教師との面談を設けてくれたりした。
けれどわたしはもともと頭がよくないし、ていねいに話を聞き取ってもらった経験がなかったので、じぶんの抱えている問題を言語化することはできなかった。
教師のひとりは、一方的にかつて海外旅行で味わった人種差別の話をしてひとり涙を浮かべたりもしていたけど、それを聞いてもわたしはまったくピンと来なくて、ああ教師も頼りにならないんだな、と勝手に落胆してしまった。
父はというと、母からわたしが学校に行っていないという話をされたとき、こう言ったのだという。
「中学にも行けないなんて、あいつはもうだめだ」
それまでも父はわたしをなにか穢らわしいもののように冷たい目でにらみつけるか、理由もなく怒鳴りつけるか、酔っているときだけ嫌がるわたしを羽交い締めするか。それ以外は、無視と無関心。そのどれかだったから、彼の言を聞いても、わたしは「ああ、そうか」としかおもわなかった。
以降わたしは放置されることになった。
親はなにも言わない。
ふたたび学校に行く機会を逸し、わたしはただ毎日をやり過ごすことだけに集中した。
傷ついた、なんておもいたくなかった。傷をまともに見たら、痛みをおもいだして、あまりの痛さに悶絶して、もう生きていけなくなってしまう気がした。
だれのせいでもない、じぶんのせいだ、というおもいもあった。わたしがもっといい子だったら、きっともっと守られて、不用意に傷つけられることなんてなかった。
わたしが悪い。ぜんぶ、わたしが。
そうおもうからこそ、わたし自身問題と向き合いたくなかった。
なにも見たくないし、かんじたくなかった。

残りの中学の2年半は、あっというまに過ぎた。
じぶんなりに「このままじゃいけない」とおもって、じぶんで高校を探した。
不登校の子向けの、半通信制・半通学制(?)の、フリースクールの延長のような高校を見つけて、通わせてもらうことにした。
その間、アルバイトもしてみた。
でもわたしは、いつのまにか『ふつう』からは遠く離れてしまっていたらしい。
ほかの『ふつうの』子たちとのちがいばかりをかんじ、深い溝をかんじていた。
それでも必死に『ふつう』に這い上がろうとした。ひとりで、もがいていた。
でも、だめだった。
あがけばあがくほど、溺れてゆくじぶんの姿を、わたしはいつもすこし上のほうから、冷静に見下ろしていた。

もうむりだ、とおもったのは、22歳のとき。
衝動的に自殺未遂をした。
といっても、はたから見たらただのODで、その程度じゃ死なないよ、と鼻で笑われる程度だったかもしれない。
それでも、すくなくともわたしは「死んでしまってもいい」とおもって薬と酒を飲んだ。腕や足も深く切っていた。
倒れているわたしを見つけた母は、救急車を呼ばなかったし、病院にも連れていかなかった。
母は看護師なので、応急処置はお手のものだった。
わたしは数日自宅のベッドで昏睡するだけで済んだ。
起きたときは、だけど、むなしかったな。
だれからも心配されていないことが、まざまざとわかってしまったから。
父はのちに「自殺者が出ると、家を売るときに値段が下がる」と言った。
わたしはもう存在したくなくて、けれど死ぬこともできなかった。
「生きること」をやめたかった。
もう外に出る元気はなかった。

... 2026.03.09