リネン|日記ログ : 2025/12 - 2026/02
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ひと月もあいだがあくと、書かなければならないことがたくさんあるようにおもう。
ドール服はその後2着完成し、そこそこ満足がいく出来になった。それで気もちに一区切りついたのか、気力がぱたんとなくなってしまって、続かなかった。また作ろうというおもいはあって、生地を新しく買ったりしたのに、けっきょくやらずに、いまはもうミシンもしまってしまった。
先週の金曜にちょっとした用事で役所に行ったのだけど、バスにうまく乗れず、駅から歩いて行くことになった。
それがおもいがけず、とても気もちよくって、歩くことはいいことなんだとはじめて頭で理解した。
それで次の日も片道30分ほどの距離にあるショッピングモールまで歩いて行った。
日曜日も近所の公園をぐるりと歩いた。
きのうも1駅分(田舎なので徒歩40分くらいかかる)を歩いた。
歩くことは、全身運動なんだと知った。たった30分歩いただけでも、背中やら体じゅういろんなところの筋肉がすこし痛くなった。いままで家に引きこもっているあいだも、タブレットでネットをしながら1~2時間エアロバイクを漕いだりしていた。でもそれはじっさい大した運動にはなっていなかったらしい。ということがわかった。いままでは全然筋肉を使えていなかったのだ。
ところで、SNSを見ていると、かわいいぬいちゃんの写真がよく流れてくる。それがうらやましかった。わたしもかわいい子を連れ出して、ちょっとすてきな写真とか撮りたい。
Amazonやminneでよさげな子はいないか探したりもしたけど、どうしてもこれ!という子が見つけられなかった。
おととい歩きながらそのことをかんがえているうち、だんだんと「じぶんで作ってみようかな」という気分になってきた。
家にある生地を調べたら、以前ドール服でうさ耳カチューシャを作るのに使ったボア生地が残っていた。
それでいきおいに任せて、簡単な設計図を書き、衝動的にぬいぐるみ作りに挑戦した。
1~2時間ほどで、手のひらサイズの白いウサギが完成。
お顔はちょっとへちゃむくれで、斜めっているのだけど、そこがまたチャームポイントのような気がした。なかなかかわいい子ができてしまった。
この子を相棒としてポケットに入れて、きのうは歩いた。ひとりで歩くよりも、すこしだけ安心できたし、勇気がわくおもいもした。
ひさしぶりにミシンを出した。
先日整理したハギレで、ドール服を作ることにした。
生地を切り終え、いざ縫いはじめたら、案の定うまくいかない。
ミシンで縫う感覚をすっかりわすれている。
身頃を1つ縫って捨て、2つめでようやくなんとか形になりそう。感覚がもどってきた。ほっとする。
でもなにかがちがう気がする。
というかそもそも、わたしが作りたいものってなんなんだ??
そんな疑問がむくむくと湧いて出てきた。
なんだか……かんがえだすと、よくわからない、というか、いらない見栄や欲、それに子どものころからだいじにだいじに積み重ね培ってきた『恨み』めいた感情が、わたしの思考にモヤをかける。
わたしはほんとうにわたしの意志で生地をえらんで、デザインを組んで、ドール服を作ろうとしていると言えるのだろうか?
これはほんとうにわたしの好み? ほんとうに??
なにか……「こうでなきゃいけない」「こうあるべき」みたいな思考が、わたしの選択をゆがめていないか?
それで一晩以上ウンウン悩んでいた。
わたしが作りたいものって、「わたしらしい」って、いったいなんだろう。
こないだ見つけたような気がしたのに、やっぱりわたしは、わからない。
あるいはこないだ見つけたとおもったものは、ただちいさな欠片であって、本質はまだまだ奥のほうに埋もれているんじゃないだろうか。
それを掘り起こす作業が、まだ必要なんじゃないか。
これはわたしが発達障害で、ながらく『擬態』を余儀なくされてきたからこうなったんじゃないか。とおもっていたけど、こうして書いてみると、これは案外普遍的な悩みかもしれない。
多くのひとは、世間的な常識や『普通』の型にはまって、枠からはみ出ないようにじょうずに生きてきて、でもなにかの拍子に「あなたってどんな人間なの?」という問いをぶつけられると、びっくりする。悩む。「ほんとのわたしってどんな人間だった?」わからなくなる。
わからないままでも生きていける。あるいは社会的に求められるペルソナと、本来的なそのひと自身に大きな乖離がなければ、そのひとはさしたる違和感なく生きていけるんだろう。仮面をつけたままでも。
でも、どうしてもしっくり来ないひともいるんだろう。
わたしは、後者なんだ。
でもそれは、特別なことなんかじゃない。わりと多くのひとが直面する悩み。
それがわかれば、わたしだけがツラい、みたいな被害者然とした感覚からは、抜け出すことができそうだ。
いらないものをすこし捨てた。
引き出しが1個半あいて、そこに机のうえに出しっぱなしだったものを入れた。机がだいぶすっきりした。
いらないハギレもすこし整理した。
わたしは以前手芸にハマっていて、ポーチなどの小物作りから、ワンピースなどの洋裁、さらにちいさなドール服作りにも手を出していた。
けっきょく小物作りには飽きてしまったし、洋裁は挫折した(大物を作るのにはそれなりの高いテンションと意欲、それからある種のちから強さが要って、些細なことに気を取られがちで小心なわたしには向いていない、とおもった)。
ドール服作りには、まだ関心が残っているので、いずれまたやりたいとおもっている。
それにしてもふしぎなのは、わたしの好みではない色柄の布地が、けっこうあったことだ。
明るいパステルカラーの、細かい花柄の生地とか。
それを買ったとき、わたしは確かにそれをじぶんの意思でえらんだ。
でも、たぶん「好きだから」ではなかった。
それが「『世間的に』『正しい』だろう」という観点から、それをえらんだのだ。
小学生の時から、じぶんを偽って生きてきた。
じぶんのままではいけない、とおもった。それでは愛されない。大事にされない。子どものわたしにとってそのことは生命の危機だったので、厳しい環境を生き延びるためには、変わる必要があった。
簡単に言うと、本来内向的な性格なのに、外向的なじぶんを装っていた。
イレギュラーでマイノリティな、暗いじぶんを隠す必要があった。
わたしの素直な「好き」はいつも否定されたり笑われるか、そうでなくても理解されなかった。
みんなとおなじようにふるまわなければならない。みんなが好きなものをえらばなければならない。
それはいわゆる『擬態』(マスキング)という語で説明できるのかもしれない。
なんにせよ、それをつづけたわたしは、いつのまにか、じぶんでもじぶんが分からなくなっていた。
たぶん、じぶんのなかで、本来のじぶんを抑圧してしまって、じぶんでもそこから目を背けようとしていたんだとおもう。じぶんのイレギュラーさを、じぶんで認めたくなかった。
無意識のうちに、『正解』を外に見いだそうとするようになった。大衆が、マジョリティが「良い」と言うものが、正しい。良い。正解。
みんなが好きというものを好きでいれば、わたしは、否定されない。
わたしはじぶんを守りたかったのだとおもう。
でもそうしている間に、じぶんでもじぶんを見失ってしまった。
だけどやっぱり違和感がある。
まわりのひとからも、「ほんとうにそれが好きなの?」と訝しがられる。じぶんでも、よく分からなくなる。
わたし自身「なにかがちがう」とおもいながら、でもなにがちがうのか分からない。
わたしは『正解』をえらんでいるはずなのに。
どうしてこんなにもしっくり来ないんだろう。
わたしはもうじき40になる。
人生の大半は、そういう『まちがい』の繰り返しだったような気がする。
『世間的に』『正しい』とおもって、なにかをえらぶ。でもそれがわたしにはぴったりと合わない。なにかがちがう。だからそれは捨てて、また旅に出る。またあたらしいものに出会って、えらぶ。ちがう。捨てる。
そうしてなんだか……わたしはずっと、ほんとうのじぶんを、もういちど見つける旅をしてきたような、そんなかんじがする。
長い旅路の果てにあったのは、ほんとうにちっぽけなわたしで、それはたしかに子どものころ好きだとかんじたもの。ここちよいとおもったところ。
そのやわらかい部分を、持ったまま、おとなになることはできなかった。
そのためには人生はハードすぎた。するどいトゲや針、攻撃が多すぎた。
わたしはその『大切』が傷つかないように、だいじにだいじにくるんで、だれにも見えない奥の奥にしまいこんだ。
その結果じぶんでもそれがなんだったか、おもいだせなくなってしまったのだ。
旅をするあいだ、ずっとそれを探していたんだとおもう。それはきっとどこか『外』にあるものだとおもっていた。でもそれはわたしのなかにずっとあって……ずっとちいさく息をしていた。たくさんの雑音のなかで、その声は聴こえなかった。だけどいろんなものを、むだなものを捨てて、捨てて、捨ててきて、ようやくひとりぼっちになったとき、ああそれは『中』にあったんだ、ってことに気がついた。
ああわたしは、ここにいたんだなぁ。
ハギレを整理しながら、そうおもった。
もういらないもの。「正しい」とおもってえらんだけど、それはきっとだれかにとっては正解だったけど、「わたしにとっての」正解ではなかったもの。
じぶんの好きが、もう分からなくて、じぶんはきっとこれを好きだとおもったけど、それはだれかの好きだったこと。
そういうことが、だんだんと分かってくる。それらはじぶんには不要だったと分かる。
たくさんのものを捨てる。
その結果、わたしはすこしずつ、わたしにもどってゆく。
そこにはただ、弱くて内気な、だけど愛しいわたしが、ぽつんとちいさく残る。
あとは、すまし顔した芽吹きの風が、しずかに通り抜けるだけ。
生活を『縮小』することをかんがえている。
生活というか、生き方であったり、人生? =つまり……ライフ?
うーん、なんていうんだろう。
じぶんでもまだよく分かってないんだけど、ちょっとずつことばにしてみる。
わたしはこれまでの人生、『拡大』とか『増幅』することばかりかんがえていた。
たとえば「なにかできるようになる」だとか「何者かになる」とか。
というか、たぶんわたしは『強者』になりたかった。
勝ちたい。というよりは、上に立って見下ろして、ひとを踏みつける側にまわりたかった。
弱くて傷つけられるだけなんて、最悪。
『強く』なるために、お金や愛や地位、名声を求めた。
それらを手にすることが必ずしも『しあわせ』ではないと、頭では分かっていたけど、そんなのはどうでもよかった。じぶんが不幸になってもいいから、早死にしてもいいからひとを負かしたり、なにかに復讐?(見返し?)したかった。そういうドス黒い欲というか、復讐心や敵愾心めいたものだけが、わたしの生きる意味だった。
努力は、そのためだけのもの。
たのしいとか好きなんて感情は不要だとおもった。そんなもの腹の足しにもならない。
ただひとり勝利の旗を掲げて立つ日だけを夢見て、だれにも見えないところで、ひそかに必死にあがいていた。
『夢』も『努力』もダサいから、そんなことはつゆほどもかんがえていないふうをよそおいながら、ひとを出し抜いてじぶんだけが勝つことだけかんがえていた。そして、挫折した。
わたしはたとえるなら、鷹になりたいアマガエルだった。
カエルであることを心底恥じていた。
もしかしたら、もっとずっとがんばれば、鷹のように優雅にとはいかずとも、一瞬くらいは空を飛べただろうか。でもそれがカエルのわたしにとって、しあわせなことだったかどうか、いまはもう分からない。
挫折をかさねるうちに分かってしまったことがひとつある。
それは「わたしは強くない」ということ。
わたしはかなしいくらい弱い。かっこいい牙もするどいくちばしも爪もない。翼もない。
それが分かって、ちょっとあきらめがついた。
わたしは、鷹にはなれない。ライオンにもなれない。空を飛んだり、なにかが急にできるようになることもない。
ただわたしはちっぽけにここにあって、わたしはわたしであって、どこまで行ってもそれは変わらない。
それは悲しい、残念な事実だ。
でも同時に、ちいさな確信のような、ふしぎな心強さもすこしある。
じぶんがどういう生き物で、どういう環境が適していて、どう生きればよいのかが、なんとなくだけど、分かってきたから。
そうしてわたしはいま、ほんとうにわたしに必要なものはなんなのかを、かんがえはじめたりしている。
わたしにふさわしい生き方はなにか。
わたしが生きていくうえで、ぜったい欠かせないものと、そうじゃないもの。
それを分別して、整理したくなった。
生活を。暮らしを。人生を。
その一歩として、部屋をすこし片づけたい。
ミニマリストのようにスッキリ……などとかんがえはじめると、またヘンなことになる(またじぶん以外のナニモノかになろうとしてしまう)から、そういう方向には行かないように気をつけたいところだけど。
わたしはいまも半引きこもりなので、1日のうち多くの時間を自室で過ごす。長くいるからこそ、もうすこし快適な空間にしたい。
わたしの部屋には、いらないものが多すぎるカンジがする。
まぁ……でも、このありさまは、わたしが長年生きかたに迷ってきたから、というのもあるんだろうな。
わたしにはあれが必要かもしれない、あれがないと恥をかかされ、傷つけられるかもしれない。それがあったら、もっと強くかっこよくなれるかもしれない。
そんなふうに、あっちに手を出しこっちに手を出してきた結果。よくも悪くも。
そうしてかき集めたガラクタたち。
そうかんがえると、ちょっと愛おしい気もしなくはない。しかし、全てを持ったまま生きられるほど、わたしは若くない。容量(キャパ)も大きくない。人生だって平坦じゃない。
だから今度は、持ちものを減らしたい。
なにかに復讐したり、勝つためなんかじゃない。
ただじぶんがよりよく、気もちよく気分よく生きるために。
それでわたしは最近、いろんな意味での『縮小』をかんがえているところ。
それって終活じゃないの?とおもったりもしてたけど、ここまで書いてみて、そうじゃないんだと気づいた。
重たい不要な荷物を削ぎ落として、じぶんがほんとの意味でじぶんの人生を生きるための『縮小』なのではないかな。
部屋の物にかぎらず。精神的な、形のないものも含めて。
1ヶ月に6万くらい稼げたら、年金と合わせて、自立できるんじゃないかとおもった。
ハローワークのサイトで、1日5時間×週3くらいで障害者雇用の募集はないか調べた。けど、結果はかんばしくなく。
やっぱり最低でも週4は出ないとなのかな。わたしの調べ方がへたくそなだけかもしれないけど。
でもよくよくかんがえると、わたしは(障害者雇用だとしても)一般企業の面接や書類選考で受かる気がしない。
職歴も学歴もない、車も運転できない長期引きこもりアラフォー女を、どうして雇ってくれよう。
だったらやっぱり、A型事業所とかのほうがいいのかな。って、おもいなおした。
それで自宅から通える範囲でA型事業所を探してみたけど、A型ってなかなか検索に引っかからない。B型か、もしくは就労『移行』支援施設は、引っかかるんだけど。(A型とB型事業所は、就労『継続』支援。ちょと体系がちがう。)
なかには週4で利用できるA型もあるらしいけど、うちの周りには、そもそもA型が少ない。見つかったとおもうと、最低週5じゃないとダメだったり。
そりゃ、週5で働けるものなら、働きたい。
でも、無理なんです。
ほんとうは今通っているB型だって、行けるなら週4~5で、朝から通いたい。でも、どうしてもそれができなくて。午前ちゅうは休みの日でも、ぐったりモードだし、滞在時間もなかなか延ばせない。
いまの週3・1日2時間が、限界。すくなくともいまは。
自立は、やっぱり、むりかもしれない。
とするとやっぱり、将来は生活保護? ううん……。
主治医の先生は以前、それでもいいんだよ、みたいなことを言っていた。働けなくてもいいんだよ。幸せをかんじられれば。
たしかに、そういうかんがえかただってあるのかもしれない。
でもわたしはまだ、そこまで悟れていないというか、そういう次元にはたどりつけていない。
なんだか疲れていて、ぐったり。
風邪気味みたい? がっくり。
おなかがすこし痛い。
やる気がでない。疲れていて。なんでだろう。大したことはしていないのに。お散歩にも出ていないのに。
刺しゅうを進めたいのにな。
刺しゅうを進めて。たくさんノウハウを手に入れて。じぶんの描いた絵を刺しゅうしたい。
でも刺しゅうできない。絵も描けない。疲れている。
疲れている。ただ眠っただけなのに。
眠い。
ねむい。
ギターが弾けたらいいのに。
ギターが弾けたら。やさしい歌を作りたい。歌いたい。
でもきっとわたしが作ったら、やさしくなんてならないんだ。
やさしくなんてならない。
けさは妙な夢を見た。
長い夢だったので詳細は省略するが、あるシーンだけはとても印象的だった。悪い意味で。
かつての友人が出てきて、フランス語を披露したのだけど、わたしはその意味をほとんど理解できなかった。それなのにわたしは、その子の発音を、したり顔で直しはじめたのだ。無邪気に。けろっとした顔で。
ああそうだった。わたしは、そういうグロい性質を持つ人間だった。と目が覚めてつくづくじぶんがイヤになった。
現実では、理性があるからそんなことはしない……と、おもう。たぶん。でも理性が働かない夢のなかでは、そんなことを平気でしてしまう。わたしはそういうヤツなのだ。本質的には。それをおもいださせられた。
そんなかんじで、うつくしくないじぶんに気づいて、今朝はなんとなく落ちこんでいた。
でもこうして書いてみると、それってつまり、これまではじぶんのこと、うつくしいとおもって過ごしてたってことだろうか。それはそれで気もち悪いなぁ。
それでも、なるべくならイヤな人間にならないように、努力はしていたい。
わたしは根本的には、あんまりよろしくない性格をしている。それは、認める。
だとしても、いやだからこそ、理性が働くかぎりはじぶんを律して、できるかぎり清浄な……『よい』とされる人間でありたい。
道徳的でありたい。
これは願い、というよりは一種の欲のようだ。
そういう意味でやっぱりわたしは欲深くて、けっきょくなんだかうつくしくない。
ああわたしはまだじぶんに対しても期待しているんだな。
じぶんは(精神的に)うつくしい人間ではない。そうはなれない。って諦めてしまったほうがいい気がする。
でも諦められなくて、わたしはまだうつくしい人間になりたくって、そう願うからわたしはうつくしい(清浄な)人間たりえない。
なんだこれ。ジレンマ。なんかこっけいだなぁ。
事業所に長時間滞在できない。それはきっと過集中のせいで、ヘンに消耗するからではないか、とおもっていたけど、そうではなくて、トラウマ的なものからくる習慣化した過緊張状態が理由なのではないかと気づいた。
この緊張をどうほどいてゆけばいいのかがわからないので、手さぐりでいろいろやってみようかとおもっている。
それでまず、集中するためではなく、リラックスするために音楽を聴くのはどうだろうかとかんがえた。
事業所ではずっと音楽が流れているけど、好みじゃない曲だったりするし、スタッフさんの話し声が気になる時もある。
それを遮断して、じぶんの好きな音楽をイヤホンで聴けば、すこし緊張がほぐれるんじゃないか。
それで癒し系の曲をさがしたいのだけど、あたらしい音楽を見つけるのって、ちょっとむずかしい。
わたしは悪い意味で過敏で、日本語の歌詞だと傷つくことがあるから、英語とか外国語がいいとおもった。
曲自体は、リアナ・フローレスや湯川潮音のような音楽がいいなとおもう。
でもなかなか見つけられない。
わたしは欲ばりなのかもしれない。注文が多いというか。
きょうからビタミンDのサプリを飲みはじめた。
セロトニン不足をおぎなうため。
そのおかげなのか、はたまたプラセボなのかはわからないけど、なんだか気分が落ちついている。いつもは5分じっとしているのも苦痛なのに、きょうは1時間近くボーッとして、ごろごろすることができた。
いつものヒリつくような、無数の針でビリビリひっかかれるような衝動的な感情は、いまはあまりかんじない。
(あれはドーパミン由来のいらだちや欲求不満だったのかな。)
今週から薬が変わったことも関係あるかもしれない。
アリピプラゾールからレキサルティに変わった。
それで以前より一層ドーパミンとセロトニンが安定したのかもしれない。わからないけど。
きょうはちょっと落ちついて刺しゅうを進めることもできた。
いつもは仕上がりばかり気になって、早く終わらせなきゃと焦るのに、きょうは工程に集中できた。
初めて?過程が楽しいと、ほんのすこしおもった。
しかしあいかわらず集中は最大20分ほどしか続かない。みんな案外そんなものなのかな。25分勉強法とか言うもんね。わたしはじぶんだけ集中力がないような気がして、じぶんを責めたり恥じる気もちがあったけど。もしかしたらこれがふつうなのかもしれない。
ローソンのどらもっち(こしあん)を初めて食べた。もっちもち。ほどよく効いた塩味がおいしい。
このところ、なんとなく憂うつ。
さいきんは毎朝早く起きれて、めざましよりも早く起きれてて、毎日すこしずつだけど本も読めてる。
朝と夜と2回顔を洗って、スキンケアもどうにかできてる。(おふろは、たまにさぼる)
事業所にも、いちおう行けてる。休んでない。
こうしてみると、わたしにしては、けっこうできてること多いのに、自己肯定感あんまりあがらないな。
もしかしたら、朝早く起きるせいで、睡眠不足ぎみなのかもしれない。
ちょっと疲れてるのか。
きょうはお散歩には行かなかった。ひきこもりデー。
やっぱりわたしはおうちが好きで、ともするといつまででも引きこもってしまう。
よくメンタル疾患系のアカウントが「おふろを倒す」っていう言い方をするけど、わたしのばあい「お外を倒す」かもしれない。
お外は敵(?)が多いし、強すぎる。こわい。
それもきっとおもいこみ、『認知の歪み』なんだろうけど。
どうにもなかなか、倒せない。
けさは、6時すぎに起きた。自然と目が覚めた。
このところは7時半にアラームを2つかけている。生活を朝型にしたくて。
でも、早く起きたものの、やっぱり眠いし、しんどい。眠いのだか、午前ちゅうに現れやすいうつ症状が、早朝でより強く出て気が滅入っているのか、いや眠いから気が滅入っているのか、気が滅入っているから眠いのか、なんだかよくわからない。とにかくつらい。
けっきょくごはんを食べたあとは、8時くらいまでうだうだと床を転がっていた。
2時間あったら、なにかもっと有意義なことができそうだけど。
生活を朝型にしたいのは、いずれA型事業所に行きたいからだ。
A型は、たいてい朝の9時半とか10時からお仕事がはじまる。拘束時間も、すこし長い。一般の雇用スタイルに近いかたちが取られている。
いま行ってるのはB型で、昼すぎからのろのろと通所している。しかもわたしは現在、たったの週3回、1日2時間しか滞在できていない。
わたしは、もうちょっと真人間らしい生活がしたい。
朝5時とか6時にちゃんと起きて、顔を洗ってシャキッとして、まだ日の昇りかけたうす暗い時間に家を出て、シャキシャキっと仕事をして、家に帰ってからもシャキシャキシャキっと家事をしたり、週5日くらいは、そういうスマートな生活がしたい。
朝から晩まで、すっきり整理整とんされた生活をおくりたい。
お日さまが出てきて、部屋にも光がさしこんでくると、やっとちょっと目が覚めてきた。
このかんじを定着させて、まずは早起きを習慣にしたい。慣れてきたら、朝散歩とか、したい。