オリジナル小説「あるひとつの喪失」②
【キアロ】
童話に出てくる魔女がつくった瓶入りの毒を垂らしたら、こんなかんじになるのだろうか。そんなことをかんがえてしまうほど、どぎついむらさきの空である。本能的に忌避感をおぼえ、目をそらしたくなる、そんな色。じっとながめていると、ただただ気が滅入ってくる。
キアロはぐっと伸びをして、あたまを仕事モードに切り替えた。都市の外に出ると、いつもテンションが下がる。これは彼に限ったことではないらしい。この星に暮らすようになって数百年が経ったいまもなお、人間はみなこの空が苦手だ。
都市を一歩外に出れば、どこまでも荒涼たる光景が広がっている。灰色の岩肌をむき出しにした、冷たく硬い大地。あちこちはひび割れておおきな亀裂をきざみ、その谷の深さは最大十数メートルにおよぶ。
気温は常時摂氏12〜17度程度と、ことのほかヒトの生存に適していると言えるが、水は存在せず、空気はひどく乾燥している。専用のスーツを身にまとっても、一定時間を超えると健康に影響をおよぼし、生命の維持はむずかしくなる。
そしてどんよりとのしかかってくるような、この空だ。この第二宇宙にもほかに天体は(第一宇宙のそれに比べれば極端に少ないが)あるにはある。恒星もちかくに2つあり、光がとどく。だが地上からはそれらの星々は、まず見えない。地球には存在しないガスと浮遊粒子が、この星の大気圏に分厚い層をつくっている。空がこんなひどい色に見えるのも、そのせいだという。
これがこの星の生身のすがた。峻烈な気候風土、とまではいかないが、にこやかな態度を見せつつも本質的には、いかなる生命の生存をもゆるしていない、そういう厳酷さがそこにはある。
古代の地球では、ひとびとは森や風や石といった自然のなかに神々を見出したという。自然こそが、うやまい、たっとぶべき至高の存在だった。そのかんがえを踏襲するのならばこの星の自然は、神はきっと、仮借なくヒトの生息をこばんでいる。にもかかわらず、そこに敢然と都市を切り拓き、生活をつづけている人間は、神のまえになんともふてぶてしく傲岸だろう。いつか罰があたるかもしれないぞ。とキアロはおもい、そんなじぶんに苦笑した。
この星では「神は個々人のなかにある」という信仰を持つ者が多数派である。あとは新興の瑣末な宗派か。キアロは前者のほうにいる。じぶんに罰をくだすとしたら、それはおのれの内なる神が、であって、いちどに不特定多数の人間に神罰がくだるなんてことはありえない。因果も天罰も、怒りの日«ディエス・イレ»もない。生前も死後も、おのれを救うのは、おのれが胸にいだく神ただひとりである。教義はともかく、神の存在それ自体は、だれとも共有はできない。神はひとそれぞれ胸内でいろんなかたちをしていて、名前は持たない、つけてはいけないし、もちろんその名を呼んではいけない。そのような現代的な宗教以外、キアロは到底信じる気にはなれなかった。それこそ、内なる神が、ゆるさない。それでも、たとえば20世紀に生きたひとびとが、2000年以上もまえに信じられていたギリシア神話の神々を完全に唾棄できなかったように、キリスト教徒であるはずの芸術家たちが、にもかかわらずいつだってミューズたちからの天啓を期待したように、じぶんのなかにもどこかにアニミズム的あるいはかつての唯一神教的思想に神秘性をかんじ、惹かれる部分もある。だから天罰なんてことばも浮かぶ。しかしそれは、古代のひとびとや宗教芸術に敬意を持つといった域を出ない。本気で神をおのれの外にもとめるというのは時代錯誤的な迷信だ。内なる神──ひいてはじぶん自身に背いては、それこそ罰がくだる。
いずれにしろ、だからこの星における宗教観からすれば、どのような環境でも屈せず生きることを決めたひとびとは、正しい。じぶんたちは。正しい。どこまでも、正しい。
そのように強く自己肯定をしてキアロは、しっかりとしたソールのコンバットブーツ越しに荒野を踏み締める。寂寥を絵に描いたような風景のどまんなかに立つ。あたりにはほかにひと気はない。ただ背後に都市のドームが丘のように地面にへばりついているのが遠く、ちいさく見える。
背後から微風がほおをかすめた。都市の外に吹くそれは自然のものではなく、都市の空調機能が副次的かつ気まぐれに起こすものだという話もある。それが真実かどうかまでは、知らない。
キアロがまとうものは、ブーツも、ぴったりと肌にまとわりつく戦闘用スーツも、防御用のベストも、光を反射しない黒。右下腕にはめた大ぶりの籠手状の機械だけは、真珠光沢のある白だ。
軽やかな身のこなしで地面を蹴り、足元で割れた地面を飛び降りる。数メートルはある崖だが、特殊な素材でできた戦闘服が身体的ダメージを軽減する。
地球では、この星は『崖壑星(がいがくせい)』と呼ばれることもあるらしい。つまり崖と壑(たに)だ。この星はそれらであふれている──というより、それしかない。大地に無数にきざまれた峡谷は深く、おおきいものだと長さは数キロメートルに及ぶ。
見上げれば、両サイドにそびえ立つ鈍色にびいろの崖のはざまに、一条のよどんだ空。恒星からの淡い光により、谷底はやはり暗く影になる。そのせいか、空は地上で見るものよりもいくぶん明るく、マシに見えた。
ふいに視界の上半分に、水色のヴェールがかかった。それは半透明で、下にむかうにつれ透明になる。うっすら視界はくもるものの、むこうの景色は透けて見えるので問題はない。ヴェールの右上には一段白く矩形が切り取られて、中央に赤くおおきめの点、その周囲にばらけて緑の点が3つ確認できる。
「『反応』ありました」
と声がした。否、じっさい、あたりは無音だった。あるのはせいぜい小風のすり抜ける音くらいか。
「位置情報、いま送ったんで……見えてるとおもいますけど」
どこかすげなく聞こえる男の声である。これはキアロにしか聞こえない、キアロの頭のなかでのみひびいている音だ。コフルをつうじてキアロの脳に直接とどいている情報。
古い言いかたをすれば、『電話』をしている。端末は脳に埋めこまれているため、受話器などがなくても通話ができるのだ。相手は現在遠く離れた都市内にいる。
視界左うえに出ていたちいさいアイコン──通話ちゅうを示す──を遅ればせながらみとめる。都市外ではつねに『戦闘モード』であるため、通信は切らさない。特に『リエゾン』との接続が途切れたら最悪だ。命とりと言っていい。なので通信状況はいつでも把握しておくべきなのだが、どうしてもキアロは、ふだんから都市の外に出ると、邪悪な空にばかり気をとられてしまう。
「ばっちり見えてるよ」
にこやかにキアロは答えた。一見ひとりごとのようだが、このことばも音として相手の脳内につたわっている。
かつてはひとびとが思考のみでやりとりをしていた時代もあった。キアロが生まれるよりも、ずっとまえの話。外部/内部端末が脳波を読みとって、相手の脳へ信号として送る。受信するほうは、いまのキアロたちの通話とおなじように、メッセージがあたまのなかに響いた。発信者のメッセージのつくりかただけがいまと異なり、完全に思考するだけでよかった。開発当初最大の懸念事項だった、相手になにをつたえ、なにをつたえないかという選別も──それはプライバシーにかかわる──、いずれ対応するアプリケーションがあらわれ、問題は解決した。つたえたい事柄だけが即座に分類され、つたえたくない思考や感情は、データとして収集はされるもののロックがかかる。きちんと前者のみが宛先に送信される。そうして会話を脳内で完結させることができた。伝達内容の分類や送信にタイムラグが生じていたのはさいしょの数年だけで、その後すぐ技術の進歩により円滑なコミュニケーションが可能となった。そうして、ことばを声にして発することなく、思考のみで会話する──そんな時代が到来した。
だが、いまはもうその技術は使うことができない。条約で禁止されている。だから会話も電話も、思考ではなく、ちゃんと声帯を使って声を出しておこなう。
じゃりじゃりとした谷底をキアロは歩きはじめた。通信相手のことをかんがえる。彼はいまどんな顔をしているだろう。都市内の補佐室のシート、たまご型のおおきな椅子にすわって、まじめに、几帳面にこちらからとどくデータすべてに目をとおしているはずだ。渋い顔をして。それをおもうと、ちょっとおかしくなった。
この星には都市はひとつしかない。星自体は地球の10分の1程度、つまり5千万平方キロメートルくらいだが、都市は約3万平方キロメートルとちいさい。都市をおおうドームの外は、500キロメートルは乾いた荒地がつづく。キアロがいまいる地点は、都市からだいたい3キロほど離れている。
「きょうのノルマ、おぼえてますか」とまた頭のなかに声がとどいた。初めて聞く者には少々陰気にもかんじられる声音だが、キアロはもう聴き慣れているし、いまはそれにつよく親しみや好感もいだいている。
「おぼえてるよ」対するキアロは反対に、いつも明朗にさっぱりと話す。「Bランク5体くらい」
「ちがいます」ぴしゃりと否定された。「1200ぺロームなんで、Bランクなら約8体分です」ペロームは質量をしめすこの星独自の単位である。
「あれ?」そうだったか。まあ、たった3体なら誤差の範囲だろう。
キアロが歩をすすめるたび、視界右上の矩形の下方にある赤い点に、緑の点がちかづいてゆく。赤はキアロの現在位置をしめしている。緑の点のうえにB、Cと表示された。赤の点と緑の点の1つはもうすぐ、かさなる。
「マップ切りますね」という声に、「おっけー」と地球語で軽く返事をした。
白い矩形が、視界をくもらせていたヴェールとともに消える。
おおぶりの籠手をはめた右腕を、さっと胸元からふりおろした。と同時に籠手からは魔法のように、黒いちいさな粒がわいて出る。籠手のまわりは、そこだけ黒い霧がかかったようになる。
「きょうも補佐(サポート)、よろしくたのむよ」キアロがそう声を張ると、
「補佐なら、しますよ」ため息まじりの答えが、ぼそぼそと返ってくる。「……あなたが死なないかぎりは」
「おれを死なせないようにするのが、おまえの仕事」
言い切るなりキアロは、たっ、と地面を蹴った。右腕に霧をまとって、駆け出す。特殊なスーツのおかげで筋力が増幅し、通常の1.5倍の速さで走ることができる。
道なりに蛇行すると、両脇の崖が数十メートルさきで途切れている。谷間の終わりだ。
視界がぱっとひらけ、足を止める。崖はそこだけ広場のようにぐるりと切りとられている。さながら古代のコロッセオを見たようだ。ちょうど恒星が真上にあるらしく、灰色の地肌に影はいっさい差していない。
なにもない──そう見えたのもつかの間、中心付近の地面にちいさな黒点がじわりと、生じた。それはあっという間に広がり、直径1メートルほどの黒い正円となる。厚みはない。べっとりとインクを塗ったようでもあるし、ぽかりと穴があいたようにも見える。
おどろきはない。ただ、キアロは腰を落とし、構えを取る。いつでも動けるよう、全身に適度な緊張をめぐらせる。
円の表面が、ぽこぽこと泡立った。つづいて中央が盛り上がる。それはぐんぐんとせりあがり、柱のようにそびえたった。
「解析終わりました。女王(レーヌ)型です」
あたまのなかで、平静な口調の報告。いまキアロが見ている状況は、ほとんどそのまま通話相手にも送信されている。つまり、むこうもおなじ異変を目にしている。だが、キアロ同様に焦りはない。慣れている。
その間にもほんの数メートルさきでは、柱がぐにゃぐにゃと変形をはじめている。上のほうはちいさな球体となり、それは長い首にささえられ、そこから下にはやけに細い上半身が伸びる。腰のあたりからは急に釣鐘型に広がって、地面へと至る。表面は黒一色のまま。まるで鯨のひげでスカート部分をふくらませたドレスをまとう女性の影絵(シルエット)だ。
それはなおも、ぶくぶくとふくらみつづける。まわりをかこむ崖よりも高やかな巨神(ティタン)と化した。
亭々たる『女王』が落とす深い影のなかで、キアロはちいさな頭のほうを見上げる。ごきげんに笑って、「お目にかかれて光栄です、女王陛下」それが合図だった。
一瞬しゃがみこんだかとおもうとキアロは高く飛びあがる──目線はあっという間に『女王』とおなじくらいになった。もちろんふつうの人間がじぶんの足で跳躍しただけでは、ここまでの高度にはいたらない。スーツで筋力を増強しているのもあるが、それだけではない。飛びあがる瞬間に、キアロの足元にはなにかがあった。さきほどまでは地面以外なにもなかったはずのところだ。黒いジャンプ台のような、あるいはおおきな波のようなものが、突然生まれ、キアロのからだを押し上げた。
『女王』は、すこし身をひねった。かとおもうと、胴のあちこちからなにかが無数に飛び出してくる。腕だ。あるいは、触手か。10本以上の細長いものが生え、そのうちの2本がぐわんと宙にうねる。まだ空中にいるキアロ目がけて、すさまじい速度でふりおろされる。
それはあきらかな『攻撃』だった。『女王』がこちらの存在を認識している、という表現が正しいかどうか、キアロには分からない。いずれにせよ、それはキアロの存在に反応し、抹殺せんとしていることは、たしかだった。
キアロはまた、飛んだ。今度は後方に背をそらす。そのすぐ下を腕の1本が、ビュンと音を立ててすり抜けていった。
ふわりと宙返りをしてキアロは、近くにあった崖のうえに着地した。
その白い籠手のまわりには、黒い霧がまとわりついている。人間離れした跳躍のかぎは、これである。霧はさっき、まるで蜂か鳥の群れのように、あるいは1つの意思を持つ生き物のように足元に集った。すぐさま凝りかたまって、それは空中に浮く不自然な黒い固体となった。キアロは、迷いなくそれを足場にした。ブーツの底が触れた瞬間、それはゴムのように弾性を持ち、また不自然なほどに伸び上がって、彼のからだを跳ねあげた──。役目を終えるとそれはぐにゃりとくずれて、しかし霧には戻らず、半固体の泥漿(スライム)状になってキアロのもとに集結し、いまは足元で不気味に波打っている。
意思を持った黒いアメーバ、あるいは異世界から呼び出した神秘的な眷属のようにも見えるが、これはあくまで『物質』である。あやつっているのは、キアロの思考だ。
うごめく黒いそれを従えキアロは、小首をかしげる仕草をした。その顔にはまだ余裕の笑みが浮かんでいる。籠手をはめた右腕をふりあげる。それにみちびかれるように黒は、弧を描いて飛んだ。敵を捕捉しそこねバランスをくずした『女王』にむかい、キアロがおもいえがいたとおりの軌跡をたどって、まっすぐに飛ぶ。弧の先端はいつのまにか槍のように鋭くとがって、『女王』のあたまをかすめる。衝撃でその一部がえぐれて飛び散った。はじかれた欠片は、ぱらぱらと雲散霧消してしまう。
しかし『女王』自身に、たいした反応は見られない。なぜなら、こちらも生物ではないからだ。痛みなどないだろう。一見古典的なファンタジー小説や映画に登場する魔物や怪物のようでもあるが、ちがう。これは『生きている』とは言えない。また、こちらはひとがあやつっているわけではない。『現象』だ。──この星が生来そなえる自動的(オートマティック)な機能、性質と言ってもよかった。
『女王』の黒い腕の1本が、キアロのほうへ豪速で伸びる。またジャンプして上方によける。そのむこうからもう1本、さらに1本と立てつづけに腕が伸びてくる。ひとの目で追うのはむずかしいほどのスピードだが、キアロは器用に飛びあがって軽々と回避した。まるですべて予期しているかのようだ。
無数の腕はびゅんと音を立てて回転し、1つにきれいにまとまった。キアロはまだ着地していない。すでに『女王』の背丈より高い空中にいる。『女王』はそれをロケットのように、すさまじい速さで突き出した。
太く黒い腕が、上空へぴんと伸びる。
その末梢にキアロのすがたはあった。腕のうえに着地している。すぐさま立ち上がって駆け出す。腕のつけ根、『女王』本体にむかって突進する。
「キアロさん、待って」あたまのなかの声は、あきらかに焦った色を見せた。「まだです、ここは、慎重に……」
「もう止まれない!」
走りながら、キアロは右腕をうしろに引く。籠手のまわりに濃い霧が発生する。
硬い甲羅をおもい浮かべる。硬い武器──かたちは、なんでもいい。ただ、とにかく硬度のあるものを、『女王』にぶつけるのだ。
想像したとおりに霧は、凝集し、硬化してゆく。
攻撃のイメージをより強くするため、キアロは引いた右拳を前方に放った。
『オランピア』──それが、思考でさまざまなかたちや硬さに変化するこの黒いものの名称だ。もとはオッフェンバックのオペラ『ホフマン物語』に出てくる自動人形の名前である。研究・改良がかさねられ現在のような形態となったが、当初はたしかに泥塑(にんぎょう)状だったので、その名がつけられた。
これをあやつるのは、籠手──開発者の名を取り、ディーデリヒと呼ばれる──を装着する人間の『思考』である。脳に埋め込まれた端末がその者の思考を収集・情報化してディーデリヒに送り、それをもとにディーデリヒは人工的な金属元素──ピテロニウム──と特殊な波──ユーム波──を発生させる。波を受けたピテロニウムは結合し、あくまで物理法則に基づいてではあるが、ほとんど操縦者がかんがえたとおりに変質する。ときに鉄のように硬く、ときに布や紙、液体のように柔軟に変化する。おどろくほどなめらかに動きまわる。
ピテロニウムは、この星に存在したピテロンという物質をもとに人工的につくられた。ピテロンは本来地表に多く観測されるものではないが、ある条件を満たすと爆発的に地面から噴出する。その機序はまだはっきりとは解明されていないが、これはどうやら『異物』に反応しているらしい。異物とはつまり、星にさいしょからある・星で自然発生したもの『以外』──たとえば地球というべつの星、べつの宇宙からやってきた『人間』であったり、またそのヒトがつくり出した機械などの物体など──のことだ。このはたらきは、人間などの生体が持つ免疫能と酷似していると言われる。免疫は、体内に侵入したウィルスなどの『異物』を攻撃・排除するシステムである。
星はことばを話さない、顔もないので表情を読みとることもできない、だから確認しようがないが、まるでこの星にとっては人間もウィルスとおなじなのだ、と言われているかのようである。
移住から数百年が経ってなおも、この星からすればヒトは異物であり害悪、外敵であるらしい。
『女王』は、キアロ=人間=異物に反応してふき出たピテロンが、集合・結合し変化し生じたものだった。このようなピテロンの変化に伴い発生する一連の現象は、一般に『ニューロ(現象)』と呼ばれている。──キアロは地球に行ったことがないが、地球ではときおり予告なくとても強い風が吹き荒れたり、洪水が起こるほどのどしゃ降りになったりすると聞く。映画やニュースで知っている。地震や津波、雷なんていうものもあるらしい。いっぽうこの星の都市のなかでは、気まぐれに小雨──天蓋がまき散らす水しぶき──は降るのだが、災害というのは一切ない。
とにかく、自然に起こる『現象』という意味では、ニューロも地球の気象や災害と似たようなものなのではないか、と彼はおもっている。
いっぽうで、ニューロは『倒す』ものである。ふつう気象や災害のことを『倒す』とは言わない。そのちがいは、理解している。
ニューロは生物ではない。生物のように見えることもあるが、『生きている』と言える条件を満たしていない。だから『現象』であるし、そこに意思はないはずだ。じっさい、憎悪や敵がい心、殺意などは一切かんじられない。だが、それはかならず明確にひとを打ち殺そうという動きをする。『異物』に敏感に反応し、発生したのちには、まるで外敵に遭遇した獣のように、いやそれ以上に徹底的かつ純粋に対象を殄滅せんとする。そうかんがえると、動物に近いのか──いや、人間をほろぼすようにプログラムされた殺人マシーンのほうが、近いか。いずれにせよ、人間が都市の外でだまって突っ立っていれば、すぐにニューロがあらわれ、たちまち殺されてしまう。細切れにされ、最悪、食われて消化される。──そういう意味では、まちがいなく人類の敵であると言えた。
──そう。ニューロは、倒すべき『敵』。
──だから、『戦士(おれたち)』がいる。
キアロは長椅子に座り、背もたれに体重をあずける。都市からむかえにきたピテロニウム装甲の黒いクラティカに乗車して、5分ほどが経つ。広いとは言えない車内には、ほかに女性がふたりいる。どちらもキアロとおなじ戦闘服に身をつつみ、視界の端でならんで座っている。なにやら会話に花を咲かせているようで、くちはぱくぱく動いているのだが、その声は聞こえない。
かわりに聞こえるのは、「いいかげんにしてください」男の怒気と呆れをはらんだ声のみだ。
あれから接続は切っていない。おなじ通話相手である。すがたは見えないが、声はあたまのなかでひびく。
「おれ、このあいだ言いましたよね。こんど勝手に行動したら、おれ、補佐やめますって」
ふだんはぼそぼそとしたトーンなのに、いまは舌鋒するどく責め立ててくる。
「あなたは補佐の意味を分かってない」「なんのために補佐がいると」「あなたがつっぱしるためじゃないんですよ」「好き勝手やりたいだけでしょ。おれはもう、知りません」
そうガミガミとまくしたてられると、耳で聞いているわけではないはずなのに、両耳が痛くなってくる気がする。というか、あたまが痛い。
「そう怒んなって。いいじゃんいいじゃん、きょうは怪我もしなかったしさあ」
キアロがいつもの軽い調子でくちをはさむと、
「運がよかっただけです」にべもなく突っ返された。
ニューロとは本来、すこしずつ削るようにしてちいさくバラして解体(こわ)すものだ。推奨される理想的なニューロの倒しかたは、そうだ。オランピアで攻撃すれば、ニューロのからだはちぎれてゆく。パーツがちいさければ、勝手に蒸発するようにして消える。なのでその身をちいさくしていって、最終的にすべて消滅させれば、それが『倒した』ということになる。ただバラバラにするだけではいけない。パーツ1つ1つがおおきいと、近くのそれとくっついて、再生してしまう。だから、端からこまかく削いでゆく。地道な作業だが、それがもっとも効率的だ。
けれども根がおおざっぱなキアロである。戦いかたも、ざっくりとした方法を好む。猪突猛進。まっすぐつっこんでいきたくなってしまう。ど真ん中にオランピアで切り込んでも、巨大なニューロはせいぜい数等分にしかならないが、さいしょはおおきいパーツだって、オランピアで殴っていれば、いずれはちいさくなる。時間はかかるが、余計なことをかんがえなくていいので楽だ。単純明快で、分かりやすい。
そういうやりかたを、しかしパートナーである彼──リスタは、とにかく気に入らないらしい。
キアロのように前線に出て戦う者を、この星では『耕作人(ラブラール)』と呼び、リスタのようにそれを都市内から補佐(サポート)する者のことは『橋渡し(リエゾン)』と呼ぶ。
オランピアは通信方法が複雑で、リエゾンを介さなければ動かない。そのためラブラールとリエゾンは対ニューロ戦において一身一体であるとされる。
ラブラールが実戦に出る肉体派なら、リエゾンは頭脳担当だ。ニューロの情報を収集、その行動を予測するだけでなく、より効率のいい倒しかたを練るのもリエゾンの仕事であると言える。
キアロの戦いかたは、そんなリエゾンを無視しているようでもある。リスタが機嫌をそこねるのも無理はないのだろう。
たしかに、倒すのに長くかかれば、危険も増す。むだな動きが増え、すきも生じやすくなる。そこをついてくるニューロの攻撃を、リエゾンは読みつづけなければならない。というのもリエゾンは、ラブラールの持つコフルやディーデリヒが収集した周辺状況のデータ──ピテロンの濃度など──をもとに、ニューロの発生や、ニューロのつぎの行動を読む。データは収集した時点では乱雑な数字だが、リエゾンはそれをかみ砕き、わかりやすいかたち──ときに目に見える画像で表示したり、音を使うこともある──にしてラブラールのコフルに送信する。(キアロは、リエゾンであるリスタから送られるさまざまな情報があったから、『女王』の攻撃を問題なく回避できた。)つまり、戦闘が長引けばその分リエゾンの仕事も負担も増えるのだと言える。リスタの怒りはまっとうだった。
「おれが毎回生きて帰れるのは、おまえのおかげだよ」キアロはあっけらかんと言うが、
「あたりまえでしょう」返事はそっけない。
クラティカの前方でピンクのランプがついた。安全地帯──『死地』に入ったサインだ。もうじき都市につく。
ニューロには、あらゆる既存の兵器が効かなかった。どのような化学変化が起きるのか詳細は不明だが、鈍器や刃物・銃弾などは、ニューロの表面に触れる瞬間煤のように砕け落ちる。熱線や光線も、飲み込まれるかのごとく消滅した。だがオランピアをもちいれば、有効なダメージをあたえられる。だからオランピアは現在、対ニューロ用の『武器』となっている。オランピアは、ピテロン発生からニューロへと変わる際のうごきを参考に開発されており、成分も似た物質である。だからニューロはそれを『異物』とは見なさない。だからニューロに有効らしい。
らしい、というのは、じっさいニューロのことはまだよく分かっていないからだ。
都市は『死地』のなかにあって、『死地』にニューロは出現しない。だが『死地』が『死地』たるゆえん、『死地』にピテロンが生じない理由は、そもそもニューロとは厳密にいったいなんなのか。そういったことに明確に答えられる人間は、まだこの世には存在しないだろう。
じつはこの数百年、この星の調査はほとんど進んでいない。と言って過言ではなかった。まだ人間は、星の大部分に足を踏み入れることができていない。死地から離れるほどニューロは巨大になり凶暴化し、数も増す、と言われているが、ほんとうかどうか定かではない。人間はほとんど死地から出ない。出ても数キロ圏内がせいぜいだ。
なぜなら探査機もまた『異物』としてニューロに排除されてしまう。陸からだけでなく空からも調査は不可能。特殊なガスや浮遊粒子などがそれを阻むらしい。いや、技術的にはそれができる機械をつくることも可能なのかもしれない。だが、現状この星の人間はそれを『つくれない』。
現代では、一定以上のテクノロジーは、条約で制限されている。かつてひとが技術に頼りすぎた結果、脳や身体機能の低下・減少など退化ととれる傾向があらわれた。退化を抑制するために、地球と星とが共同でさだめたのが、俗に『人体保存条約』と呼ばれるものである。ちなみに思考のみの会話もこれにより禁止された。発声しなくなったことで、ひとびとの声帯は弱まり、声をうしないかけたためだ。
この条約の可決・成立以降、ひとびとの生活のいちぶは、じっさい20世紀前後と同程度にまで退行した。利便性や快適さを捨てることと同義であったので、成立までの反発はすさまじいものであったことは言うまでもない。制約の必要性がうたわれるようになってから、決断までに、じつに200年をついやした。
多大な労力をもって決められたからには、正しく履行されつづけなくてはならない。だから星と地球は、おたがいに監視の目を光らせている。どちらかが抜けがけをして、最新のテクノロジーをこっそり使い、なんらかのかたちで出し抜こうとしないよう、たがいに干渉し、けん制しあっている。そういう意味で星と地球は、敵対まではいかないものの足をひっぱりあう不毛な関係におちいっているとも言える。
また、この星は遠く離れてはいるが、いちおう地球の『属星』でもある。なにをするにも地球からの許可が要る。星の調査に有意義な機械をつくるのを地球がゆるさない──といった話も聞いたことがある。
ひとがわざわざ都市の外に出向いて危険をおかし『ニューロ狩り』をするのも、多くそのためだった。オランピアでニューロを倒す──その現象を消滅させると、どういうわけか、その付近は一時的に死地となる。『異物』があっても、ニューロが出現しなくなる。そうして死地の範囲を増やし維持することで、都市のある巨大な死地が再生してしまうのをふせぐことにもつながるという。
これもロボットまかせにはできない。そのような機械も人体保存条約に抵触するというし、軍事的にも地球やその他の星々のあいだにあつれきが生じる。とのことだ。
どうして機械はだめなのに、オランピアシステムが運用できるのか。なにかのまちがいではないか、とおもうこともある。オランピアの技術は、これでも条約に触れないようにできているそうだ。通信も基地局を介したアナクロな手段をもちいる。とはいえ法の、世の不条理をかんじざるを得ない。
このような状況でも星に移り住みとどまることにした人間は、賢しいのか愚かなのか、いまとなってはもう分からない。当時は地球の環境や治安の悪化に歯止めがかからなかったのもあるし、移住まえの簡単な調査の結果、この星には強大なエネルギー資源の産出も見込まれた。ニューロ現象は、資源や安全を得るために支払う、わずかな対価と判断された。というのもそれは当初、発生はしたものの、つねに具象性を持たないぐにゃぐにゃしたスラリー状で、攻撃性も低いか無いに等しい、せいぜいおだやかにぶつかってくるさざ波程度のものだったからだ。
『死地』の存在もおおきかった。都市はそこに築かれた。都市のなかに閉じこもってさえいれば、さざ波に打たれることすらないとおもわれていた。
その幻想を打ち砕いたのは、移住から数十年後にあらためておこなわれた周辺調査であった。それにより死地とされる範囲がわずかにだが狭まっていることが分かった。死地は周辺からじわじわと回復・再生しつつあるようだ。さらにそれが判明したころには、ニューロ現象は比べものにならないほど激化しており、さらに形態も大幅に変化していた──なぜかヒトや、地球から持ちこんだ動物、ばあいによっては人工物のすがたを模すようになっていた──。
とにかく、おおむねそのようにして、人間は死地を、ひいてはじぶんたちの都市での生活と安全を守るために、戦うことを余儀なくされて行ったのだった。
この星の実情を、地球の人間たちは知らなすぎる。とキアロはおもう。あまりにも距離が離れすぎているからかもしれない。この星でのそうした流れ(ストーリー)を知っている地球人はほとんどいないという。それも当然だろう。知らなくても、地球では生きていける。
この星ではニューロは死活問題だ。いまさらこの星のひとびとは、ここを出てはゆけない。地球から他星への移住は現在下火であるし、どこにしたって受け入れてはもらえないだろう。もはや髪の色も目の色もちがう『宇宙人』めいた人間たちである。遠くから見て許容するのと、直接間近で相対するのでは、わけがちがう。だから現状、この星を出ていくことは現実的ではない。星を出られないのなら、ニューロと向きあいつづけるよりほかない。
せめて星の調査にくらい、最新技術の使用をゆるしてくれればいいのに。そうすれば、人間がわざわざ危険をおかさずとも、死地を守ることができるのではないか。しかしそれが許可されないまま、数百年がすぎてしまった。
クラティカは、あっという間に都市につく。ドームに等間隔でもうけられた出入り口のシャッターが開き、車体は都市のなかに飲みこまれてゆく。
ドームにほど近い街の片すみで停車したクラティカを、「やあやあ」ひらひらと手を振ってみせながらキアロは降りる。
停留所に仁王立ちで待っていたのは、背の高い褐色の肌の男。彼はキアロの浮薄な笑みを見るなり、がくりと肩を落とし、片手で目元をおおった。
「おれはもう、キアロさんの補佐をつづける自信がありません」
いつものことだった。滔々と説教をしたあと、彼はかならず自信喪失し、ひとりで落ちこむ。
つややかなむらさきの髪、すっと通った鼻梁、柘榴石(ガーネット)の埋まった切れ長の目。それだけ見れば衆目を集めるめぐまれた容姿と言えるだろうに、この男──リスタは、どうも性格が内向的というか、暗い。
キアロはひょうひょうと笑い、「こないだもそんなこと言ってたよなー!」まるまった彼の肩をばんばんと叩いた。
オランピアの最大の欠点は、遠距離からの操縦ができないことにある。ディーデリヒから発出される波がとどく範囲でないと動かせない。飛び道具のようにしていちぶを飛ばすこともできなくはないが、その距離はかぎられるし、威力や精度は弱まる。だからラブラールはわざわざ死地の周辺に出向く。都市の外では、基本的にチームでは行動しない。複数人がまとまっているとニューロは頻発し凶暴化する傾向があり、より危険が高まるためだ。またピテロンの噴出量が増え、死地付近の活性化にもつながるとの報告もある。ニューロは、死地の保全のためには放置はできないが、発生させすぎてもいけない。そのあたりにはジレンマがある。
とにかく、外でひとりで行動するラブラールには、リエゾンの存在は唯一の命綱だ。じっさいリエゾンを介さなければオランピアは動かない。オランピアがなければニューロのまえにひとは無力である。だから、『命綱』という表現は言い得て妙だろう。
「ただいま、おれのリエゾン」
キアロはあらためて彼の顔を見つめ、にっこりほほえんで言った。
「……おかえりなさい」ぼそりと返すリスタは、どこか泣きそうにも見えた。「怪我がなくてよかった」
「おまえのくれる情報は、いつも正確だから。ありがとうな、リスタ」
本心だった。
キアロはこれまで何人ものリエゾンと組んだ。だが、気ままなキアロの補佐ができる人間はなかなかいなかった。リスタとは、かれこれ2年以上つづいている。キアロの横暴にさじを投げずにつきあってくれる、数少ない貴重なリエゾンである。それに、これほど分かりやすく予測データをくれるリエゾンはそうそういない。なんだかんだ、キアロの行動を邪魔しないようにしてくれる。心配だっていつも十二分にしてくれている。このうえない『最良の補佐』だ。
「おれがいま全宇宙内でいちばん信じてるのは、おまえだよ」
このことばは、最近キアロのくちぐせになりつつある。まじめで一生けん命で、パートナーの暴走になにかと自信をなくしがちな3歳下の部下を、はげましたい気もちがある。と同時に、だから多少の勝手な行動はゆるしてほしい、という甘えもすこし、ふくまれている。それをキアロは自覚している。
リスタのほうは、それに気づいているのかいないのか。真顔で淡々と、
「いや、信じるとか信じないとかの問題じゃないんで」
そうつっかえされ、キアロは肩をすくめて苦笑した。
【アサギ 2】
──おれは、おまえのリエゾンをやめるよ。
ひさしぶりの残業を終え、校舎を出るころには午後6時をすぎていた。都市の天蓋は時間にあわせてすでに鉄紺色に変わっており、うす暗い街中を、電灯の白い光が無数に照らしている。いまから歩いて帰るのはなんだかおっくうで、門を出て数歩のところで立ち止まると、アサギは人さし指で空を2回たたく。コフルの画面が視界にあらわれる。指先で操作する。
ほどなくして左手の車道に、空車のクラティカが止まった。白い円筒形のそれにちかよると、扉の部分だけが消滅し、内部があらわになる。1人乗りタイプなので、せいぜい90センチ四方と手狭だが、すわっている分には問題がない──乗り込んでやわらかい座席に腰をどっとおろす。「自宅へ」とひとこと告げる。クラティカは脳内のコフルと自動でリンクし、自宅への道のりを読みこんで、ゆっくりと走り出した。
窓にもたれると、おもわず一睡しそうになる。自宅マンションはすぐそこだ。まもなく到着してしまう。降車し、眠気をふりはらうよう強くまばたきをして、目線をあげた。
青い景色のなか、マンションの入り口から煌々と漏れる光に、見慣れた赤を発見した。
こちらに気づいて軽く手をあげる、おさななじみの髪の色だった。
アサギはおどろきもせず近づき、エントランスの段差に腰をかけた彼──キアロを見下ろす。
「なんでいる?」
ともすると冷たい態度だが、おかまいなしにキアロはニッと白い歯を見せ、言った。
「なんとなく」
ある程度予測していた答えだった。アサギはどこかあきらめに近い境地で、鼻で一息つく。彼の横をすり抜け、マンションのエントランスをくぐる。キアロは、ごく自然に軽快な足取りでついてきた。
「風呂場の窓の鍵、閉まってたんだけど?」
背中にちくりと刺さる。
「防犯上、仕方なくな」淡然と答える。軽く横目でうしろを見ると、わざとらしくじっとりとした目でにらまれた。「うそつけよ。おれ対策のくせに」
それでも連絡すらよこさずに、ばかみたいに呆けて待っていたのは、ただ単にキアロがそうしたかったからだ。と、アサギは了解している。いつだって彼は、そうしたければそうするし、したくなければしない。それだけのことだ。
もちろんキアロにも、アサギを本気で責めるつもりなんてない。エレベータに乗り込むころには、いつもの気の抜けた顔にもどっていた。
そのとき、アサギはそれに気づいた。コフルを操作するふりをし、ぱっと壁のほうへ目をそらす。
彼の腕に巻かれた、真新しい青の包帯。眉尻には絆創膏が貼られていた。
──生傷は、戦士の証。
あたらしい傷以外にも、キアロの体じゅうには多くの傷あとが刻まれていることを、アサギは知っている。
胸のうちで芽生えかける自責の念をおいやってアサギは、あえて冷静に言った。
「いいおとななんだし、おまえもすこしは冷静になれよ」
今日日、小学生のほうが大人だぞ。とつづけると、キアロはきょとんとした顔をして、
「なに、いきなり先生モード」そう茶化してくる。
「どうせまた勝手な行動をして、リエゾンを困らせたんだろ」ためいきまじりに言うと、悪びれもせず「正解」と笑う。
エレベータが止まり、目のまえの扉が消えた。2階の通路はなぜか電灯がひとつ消えていて、ほの暗いなかを2人無言で歩いた。すこし距離をおいて、キアロがうしろをついてくるのが、独特な軽い足音で分かる。
アサギが玄関の戸をくぐると、当然のようにいっしょに入ってくる。分厚いスニーカーを脱ぎ捨て、そのまままるでじぶんの家のようにずかずかとあがりこみ、キアロはリビングのソファにどっかと腰をおろした。
「なあ、映画観よう」ひとりでコフルの操作をはじめる。画面の共有設定をすれば、複数人でおなじものを見ることも可能である。
アサギは寝室へむかい、部屋着に着替える。
リビングへもどると、しかしキアロは映画は観ていなかった。ソファの肘かけにもたれ空を見つめていた。
その顔に浮かびあがるうつくしい稜線に、一瞬なつかしさをおぼえつつアサギは、素通りして風呂場にむかう。
顔を洗う。すこしだけ目が覚めた。
「今度いっしょに飯でも食わない? リスタと」キアロの間延びした声が、リビングのほうから聞こえる。
洗面所からもどってくるから、あらためて「なんで?」と率直な疑問を投げかけた。
キアロがソファから身を起こす。めずらしく眉間にしわを寄せて、「『なんで』?」腕を組んでおおきく首をひねる。「うーん、なんでだろう」
アサギも立ったまま腕を組んで、壁にもたれる。「おれはいいけど……むこうは、いいのか?」むこうとは、リスタの気もちのことだ。
「いんじゃない」
さも当然のようにこたえるキアロの無責任さに、アサギはあきれた。
アサギはまだ会ったことはないが、リスタの話は、キアロをとおしてよく聞いている。キアロの現在のパートナー、リエゾンだ。
「いいやつだよ、あいつは」キアロはよくそう言う。それはそうだろう、とアサギはおもう。よほど寛容で忍耐づよくないと、キアロのパートナーはつとまらないだろう。
こんな自己中心的なラブラールに、つきあいつづけてくれるリエゾンはそういない。
──じぶん以外には。
そうおもっていた。
「おまえと、いまのおまえのリエゾンとの関係を、乱すつもりはない」
アサギがここまで言ってもまだ彼は、言わんとしていることを分かっていないようすで、「どういうこと」怪訝な顔で身を乗り出してくる。
前線の戦士と補佐の関係は、繊細だ。──いや、リエゾンとは、そういう生き物だ。アサギはそうかんがえている。ラブラールがいる状況をつぶさに観察し、予測を立て、ラブラールに最適なつぎの一手をさぐる。適切な指示をあたえる。それがリエゾンの役目である。だからだろうか。こう言ってはなんだが、ラブラールのほうがリエゾンよりも思慮深い組(クープル)を、アサギは知らない。たいてい後方のリエゾンのほうが、ものごとを深く捉える。なんでもこまやかに対応する。ひとの機微にも敏感だとおもう。そういうのは、一種の職業病なのかもしれない。
しばらく黙してことばを選ぼうとしたが、すぐにめんどうになった。「たぶん……おまえには分からない」
「なんだよ、それ」
キアロはあからさまに落胆したようすで、背もたれに大きく倒れこんだ。
「相手が分からないことを、分かりやすくおしえるのが、先生の仕事だろー?」
「そうだな」アサギは躊躇なく同意し、自嘲する。たしかに生徒のまえなら、こんな投げやりなもの言いはしない。
キアロはだらしなく天をあおぐと、そのまま黙りこんでしまった。
アサギはスツールに腰をかけた。こういうとき、キアロはなにか、かんがえている。時間をかけて、こたえをさがしている途中だとおもう。それは分かっている。なので、待つ。
あごに手をやり、たしか家にはろくな食べものがないから、なにか注文しようか、などと思惟をめぐらし、コフルを操作しようとしたそのとき、
「あ、分かった」
突然キアロが身を起こした。
「おれがさ、紹介したいんだよ。あいつを」
まあそうだろうな。ということばを、アサギは噛み殺した。かんがえるまでもないことなのだが。
「あいつ、いいやつだから」
そう言ってキアロは、邪気のない笑みを見せる。
そういう話ではなくって、と話のながれを訂正したいところだが、それはためらわれてしまった。キアロの笑顔には、一種の凄みとも言うべき、迫力めいたものがある。それをまえにすると、ひとは冷淡な態度やことばを発する意気を、くじかれてしまう。キアロのペースに飲まれてしまう。
「大事なおれのリエゾンなんだよ」
キアロは言ってひとりでちいさく笑い、立ち上がる。勝手に台所に入り、勝手に棚をあけグラスを出す。蛇口から黒い炭酸水をそそいで出てきた。その手にグラスは1つしかない。
「おれにも」と言いかけてアサギは、やめた。得体の知れない感情が、胸ににじんできていた。感傷めいた感覚に、じぶんで戸惑う。両腿にひじをつくかたちで、うなだれあたまをかかえる。
「おつかれ?」キアロはまたもとの席にもどり、コフルを操作しはじめる。「なんの映画がいいかな……」
「……おまえさ」発せられた低い声に、アサギはじぶんでおどろいた。「ラブラールをやめる気は、ないのか?」つづけて出てきたことばも、おもいもよらないもので、おもわずはっとしてくちに手をやる。
そんなアサギにキアロは気づいていないようすだった。
──キアロは自身の仕事を愛し、誇りにおもっている。それをよく知っているはずなのに。じぶんはなにを言っているんだろう。やはりきょうのおれは、疲れているのか……。
コフルを操作する手を止めないままキアロは、「おまえはさ」と切り出す。意外なほどまじめな声音だった。「近くで、子どもたちを見守ってやって」
「は?」
質問に対する答えになっていないようで、その意図を汲みそこなう。アサギは顔をあげる。
「おれは遠くで、みんなを守る」
みんなっていうのは、都市に住む全員のことな。とキアロはつけそえた。
「──そのために、戦士は必要だ。そうだろ?」
そうしてこちらに返ってきた金色の双眸は、透んできらきらと輝いていた。
「なんでかは分かんないけど……おれはただ、みんなを守りたい。おれ自身のために」
まっすぐな笑顔で、はっきりとそう告げられてしまった。
おおきな、どこまでも純一無雑にして無垢な、祈りめいたことばである。
それをまえにしてアサギは、からだの中心から自然に湧き上がってくる『願い』も、そのままおもてに出さず、うちにしまい込むよりほかなくなる。
──ラブラールをやめてくれ。
ラブラールは、つねに死ととなりあわせの危険な仕事だから。むざむざとニューロに殺されてほしくない──キアロに死んでほしくない。というのは、しかし、キアロの意志を無視した自分本意な希望なのだとおもう。キアロのそれにくらべれば、ちっぽけで個人的な願望だ。だとしても一心不乱にそれを希(こいねが)いたくなるおのれも、胸のうちには、いる。じぶんでも、じぶんに呆れる。
「週末なら、いまのところ予定はない」
アサギのつぶやきめいた返答を聞いた瞬間、キアロは、
「ってことは、リスタに会ってくれんの?」
好きなおもちゃを見つけた子犬のように、パッと表情を明るくする。
「でも、いちおう、むこうに訊いてからにしろよ」
「なんて?」
「だから……」アサギは、朝セットしてそのままだった髪を掻かきおろす。
つまり、じぶんのまえのパートナーに会いたいか? ということだ。そう説明してなおもキアロは腑に落ちないようすだった。「そんなの、あたりまえじゃん」
「もし、おれが彼の立場なら……ちょっといやかも」アサギが正直にそう吐露すると、
「えー、なんで?」
キアロは案の定、まったく理解できないようすで、いつもどおり開豁に笑った。